好きを拡張して嫌いを隠すためのライフハック

小学生の時、いじめっ子だった。たびたび語られるのはいじめられた側の話だが、そればかりが世の中に流通しているのは、いじめた側もいじめたと言う事実を忘れられないからではないだろうか。自分の中にあった悪意を見過ごすと言う存在証明をした結果語られない。私はあえて見過ごしていた悪意を自分の中から抜き出す事をよくする。自分の矮小さを自覚しなければならない。私はその子の事をよく殴った。強く背中をはたいたり、足を踏むなどしょっちゅうしていた。その子は賢かった。私の中にある恐れのようなものも見透かされていた。「先生に言ったら許さない。」情けない私は情けない脅しを何度もその子にしていた。小さい頃から悲しいくらい私は歪んでいる。歪みはなおらない。申し訳なくなることはあってもなおらない。一緒になっていじめていた子は親とともに謝りに行ったが、私は母に事実を歪めて伝えていたため行かなかった。性根が腐りきっている。そんな人間が大きくなったからといって人に受け入れられるなんて誤解も甚だしいと思う。

私しかみせてあげられない世界があるよ

ミスiDのセミファイナリストを眺める。彼女たちのTwitterを眺める、ブログを眺める。散文的な文章が多いなぁと思った。大森靖子のブログの形態を、そのまま上手に活用したような文章。考えたことをそのまま書き起こしているから、ほとんどが話し言葉で無加工だ。感情がいかにダイレクトに反映されているかが評価されるようになった気がする。去年よりずいぶん絵を描く子が増えたし、また引きこもりもいっそう増えた。しかしみんな言っていることがどことなく似ている。一見同じような女の子たちから差異を見いだしていくのが面白そうだなぁと思った。

毎晩の浮気にドキドキ

Twitterからログアウトした。最近ふとした瞬間に考えることが「いま考えていることをどうツイートしよう」ばかりになってしまったからだ。Twitterで自分が考えていることを表現すると他人からのレスポンスがある。しかし私のツイートは往々にして独り言で完結する。Twitterにおける人との関わりに味をしめた私は、狙ったツイートに思うような反応がこないことを悩むようになった。Twitterであれ現実であれ他人からの評価について悩むとき私はダメになる。前回はサークル内での自分の評価について悩みすぎてダメになった。自分が望んでいる評価が高すぎて他人からの評価を客観視したときにショックを受けた。Twitterでも似たような事をしている。過度な期待で目を濁した。「心がカビ腐っている」と言う表現を見たとき、妙にしっくり来てさまう。取り合えず今は目に見える評価に一喜一憂するのをやめることにした。即物的なものほど中身がないくせ依存性は高いなぁと思う。

全てのさよならはお世辞みたいなものさ

一番にならなきゃ皆と居る価値がないなぁと思う。馴染めないって言うのは見栄とかじゃなくてすごく事実。すごくすごーく事実。異質。皆がそっと居なくなってほしくて自浄作用を起こす存在。だから一番のカリスマになってひれ伏させたい。圧倒的な力でねじ伏せて満足したい。関係に安心したい。できない。

まじぇすてぃっくらごーん

ママがはやく眠るようになった。他人をだしにして安心したくないなと思う。他人のブス加減を聞いて安心しちゃいけない。けどこの「聞かない」動作の理由は「道徳的に正しい選択でありかつ自分を万が一の傷つきから守る」と言うエゴもある。死にたいなー

ポテチコンビニから消えた

Twitterなんかでカッコよくたってダメだよカッコいいとかよくわかんないし言うこと全てダサい私が何言ったって仕方ないけどさ!!こうやって保険かけちゃうよね~誰かに攻撃される前に自覚あるアピールしてしまう。自分の言葉に自信がないし、書き起こすことに違和感を感じてしまう。気持ち悪い。頭の中のハイパー傑作をバーチャルですませないような努力をいい加減始めなければならない。可視化できるようにすることが質量がある存在へのシフトであって割りと媒体は関係がない。野球の岸はどれくらい有名だったんだろう。全方位全てに強くなりたい。野球も麻雀も小説も全部全部制覇したい。お酒を死ぬほど飲んでひとりで逃げ出してゲロ吐くような残念な思い出。彼女と電話してる先輩。わざと見えるように煙草の箱を握る。ロビーのソファ、ソファソファソファ!!!!!!死ね!!!!!!!